グアムの英語と田舎の日本語と僕らのコトバ
グアムで思った話。
グアムはミクロネシアの島であり、スペイン統治期間が400年ほど、最近の100年が米国統治(途中に日本が統治した期間があるが)となっています。
そのため、英語も使われるものの、現地のヒトはチャモロ語という本来あった現地語にスペイン語を400年かけてミックスした言葉を話します。まあそういうこともあって、現地のチャモロ人の英語は分かりにくいのです。
とはいえ、そうした英語は結構単純な文法構造と単語で構成されていて、あんまり難しいことを言わないのです(たぶん)。
やっぱり辺境の英語は単純になるんだろうなあと思ったり。
言葉は都会で、しかも歴史が長いほうが複雑になります。
人間が都会に集まって暮らし、その中で分業関係を幾重にも結んでいくと、
お互いに暮らすためのルールが出来、ルールの上にルールが出来、システム化されていく。
とすると、それを表すための言葉もシステム化し、複雑になるという訳で。
要は言葉のための言葉というふうに、抽象化する。
(ちなみに、このあたりはぜんぜん正確な理論じゃないスヨ)
特に、官僚機構とか、経済が発達して取引が多層化して、実生産と消費の間に中間の人間が多く入って取引が起きるほど直接に物を指図する以外のコトバが増えるわけですナ。
つまりは、中間的な物に対して価値を見出して取引する過程で言及する必要性が出てくるからですナ。
まあとはいえ、実のところ、人間の暮らしなど本質はそれほど変わるわけじゃないので、
単に都会者は小難しい言い方で自分の人生を表すなあという話でもあるのですけど、
それはそれに価値を置いた暮らしなのでやむを得ないわけです。都会暮らしですナ。
それでふと思ったのですが。
ボクらは結構豊かな言葉を使って暮らしておるわけですが、
検索するときって、なんかあまりに貧弱なコトバで検索しているなあ、と。
それは結局、そうでないと良い検索結果が出ないからで、それに適応しておるわけですが、本当にそれってそれでよかったのか??と思ったのですヨ。
適応してしまって、今までなんか見落としてなかったか、と。
Googleが登場当時、gooより検索結果が良いことで喜んでしまっていましたが、それだけで良かったのかな、と。
なんとなくこのテーマで続きます。
written by asotetsu July 24, 2007
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